本文へスキップ

2017.04.03

都心のノマド

  • 林 文夫
  • アドバイザー
    林 文夫

 卒論,学位論文,そして学術論文は,最初の読者が審査員であるという点で,他の著作物と異なる。卒論・学位論文の審査は指導教官かその同僚,学術論文は同業者が行う。そういう点では,社内レポートも同様かもしれない。上司の評価で昇進・昇給が左右されることもあるだろう。

 職業柄,論文審査の機会は多いが,審査員の立場もつらいものがある。他人の書いた論文を理解するまで読むことは,誰にとっても苦痛だろう。しかし傑作とは言わずとも,佳作論文なら,その苦痛に耐えてでも読もうかという気になる。そして傑作・佳作かどうかの予感は,イントロ(序節)で決まる。

 論文を読む気にさせるイントロを書くことは,審査される機会も多い私にとっても重大事だ。私は,イントロにとりかかるのは論文本体をほぼ書いてからにしている。まずイントロに入れるキーワードを本体から拾い,それらを順序付けたグループに分ける。そのグループがパラグラフになる。以前はカードを使ってこの作業をしたが,現在はA4の裏紙とボールペンに落ち着いた。

 この段階で各パラグラフの内容を一口で言えるようになっているはずだ。それを膨らませて冗長を厭わず文章化し,パソコンに入力したものが,イントロの最初のバージョンとなる。ここから推敲が始まる。目標は,二割から三割短くすることと,イントロ全体がストーリーとして読者の頭にストレスなく入るようにすること。

 言うは易く行うは難しだが,具体的な方法がないわけではない。一つの単語によるフレーズの代替。より正確な単語の使用。そのような単語を見つけた時は言語という宇宙との繋がりを感じる。代名詞の活用。同じフレーズの繰り返しを避け,「これ」「それ」が何を指すか文脈で明らかになるよう文章を練る。さらに心の中で何度も音読することにより,無駄をそぎ落とし文章に流れを作る。こうした推敲をしていると詩人になった気分になる。

 推敲によりイントロを変えてゆくと,整合性をとるため本体の修正も必要になる。私は,論文全体を紙に印刷しそれに朱を入れパソコンに再入力する,というサイクルを繰り返す。一日一サイクルで何日も,場合によっては何週間もかける。さすがに本体については詩人気分の推敲はしないが,それでも一日が終わると各ページは朱で埋まる。

 ハードコピーに朱を入れるのは,カフェや電車の中で行う。自分のオフィスがあるのにわざわざ街に出るのかと言われそうだが,不思議なことに,その方がはかどるのだ。オシャレな人々の雰囲気を感じながらの推敲の方が,文章にリズムが出るような気がする。

 私の推敲の舞台装置は変遷した。ハードコピーと朱を入れる赤のボールペンは,iPad ProとApple Pencilに変わった。行先のカフェは,昔はスタバでよかったのが,今は丸の内仲通りの一保堂や東京ミッドタウン地下の虎屋や西麻布の丸山珈琲になった。私はこうしてプリンターもオフィスもいらない都心のノマドになった。

役員室から > 「林 文夫」 その他のコラム