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2016.05.02

金融政策と「期待」

  • 吉川 洋
  • アドバイザー
    吉川 洋

 正常な経済状態の下での金融政策は、金利政策である。金融引き締めは金利の引き上げ、逆に金融緩和は金利の引き下げを意味する。金利は、企業の行う設備投資、家計の行う住宅投資などに大きな影響を与える変数であるから、「どれだけ影響を与える」という定量的な細部には不確実性が残るにしても、金融政策の効果については、疑義はなかった。

 ところが1990年代の日本を皮切りに、アメリカ、EUでもぞくぞくと名目金利がゼロまで低下したことから、金融政策は深刻な問題に直面することになった。ゼロ金利の下で、金融政策はいかにしてその有効性を確保するのか。

 名目金利がゼロまで低下しても、まだ手は残されている。これが世界の中央銀行の立場だ。実際、ECBに続き日銀も1月、ついにマイナス金利を導入した。しかし、金利ゼロの現金がある以上、マイナス金利の余地は限られている。すでにマイナス金利導入以前から、「タンス預金」と思われる1万円札は7%に近い高い増加率で伸びている。金庫の売れ行きも良いという。

 名目金利にマイナスの下限があるにしても、企業・家計の経済行動に影響を与えるのは「実質金利」である。黒田緩和は「実質金利を押し下げることを起点とする」というのが日銀の公式見解でもある。実質金利は名目金利から「期待インフレ率」を引いたものだから、名目金利が下がらなくても、インフレ期待が上がれば実質金利は下がる。

 インフレ期待はどのようにして上がるのか。消費や投資など実体的な経済活動を行い、モノやサービスの価格を決めるのは民間の企業や家計なのだから、金融政策の目標に照らして問題となるのは、あくまでもこうした企業や家計のもつ将来の物価変化率に関する期待である。物価連動債と普通の国債のリターンの差、プレミアムをもって「期待インフレ」の尺度とする議論もよくなされるが、これはあくまでも物価連動債という1つの資産市場の参加者がお互いに合意した「期待」である。それはケインズの「美人投票」の所産だから、これをもって企業や家計の「期待インフレ率」とするのは適当でない。

 企業や家計は、自分が関心をもつ個別の物価の実際の動きに基づき「期待」を形成する。その意味では、期待は過去の「後追い」なのである。もちろん、「先を読む」ということはある。消費税率引き上げ前の駆け込み需要は典型である。しかし、日銀がベースマネーをいくら増やしても、それが人々の「期待」を変え物価を上げるというようなことは、そうなる理論モデルをつくって満足している経済学者の頭の中でしか起こりえない。そもそもほとんどの消費者、企業経営者は、日銀当座預金が何であるのか知らない。知らないものが増えたからと言って、企業が物価を上げるというようなことが起こるはずはないではないか。

 マクロの理論モデルでは、モデルの中の経済主体が等しく観察しているマクロ変数として、ベースマネーの変化と、消費税率の変更の間に何の違いもないことになっている。両者の違いを考えることは、スタンダードな理論モデルを反省する良い糸口だと思う。