本文へスキップ

2016.05.17

日露交渉 三度目の正直か

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2016年5月12日)に掲載

  • 宮家 邦彦
  • 研究主幹
    宮家 邦彦
  • [研究分野]
    外交・安全保障

 医学用語に「境界性(ボーダーライン)パーソナリティー障害(BPD)」なる疾患があるそうだ。特徴は見捨てられることへの恐怖、不安定で激しい怒り、慢性的空虚感など。これぞロシア人の性格だ、と先月ワシントンで旧知のロシア生まれ研究者が教えてくれた。保養地ソチで安倍・プーチン会談が行われたのは6日。もちろん、国家と人間は異なるだろうが、交渉の行方を考えていたら、ふとこのBPDを思い出した。

 今回安倍晋三首相は平和条約交渉について「今までの停滞を打破する突破口を開く手応えを得ることができた」と語った。慎重な言い回しではあるが、日露関係は新たな次元に入ったようだ。紆余曲折はあろうが、ロシア側の対応次第では、今後本格交渉が始まる可能性もあるだろう。

 経済制裁と油価低迷で危機感を深めるロシアの本音は日本からの経済支援だ。対する日本は北方領土のこれ以上の既成事実化回避のため、まず「時効」を止め、露側に戦略的譲歩の用意があればさらに踏み込むつもりなのだろう。

 もちろん、前のめりは禁物だ。そもそもロシアが北方領土を簡単に放棄するとは考えにくい。プーチン政権の主張が大衆迎合的ナショナリズムに基づく「母なるロシア」の回復であるとすれば尚更だろう。対露関係に関する日本と欧米の温度差にも注意が必要だ。米国は日本の勇み足を警戒するだろうし、欧州各国も独自の対露関係を抱えている。日本の立ち位置を考えれば、欧米諸国との連携を無視することはできない。

 今回日露首脳は交渉で「新たなアプローチ」を取ることで一致したという。しかし、戦略と戦術の順序を取り違えてはならない。今の日本の最重要戦略課題は中国が台頭する中での東アジアの安定だ。しかも、ロシアが欧州大陸でやっていることと、中国がアジアの海でやっていることは「力による現状変更」という点で基本的に変わらない。そうであれば、日本の基本戦略はあくまでG7メンバー国間の連携でなければならない。G7連携という戦略的枠組みの中で戦術的に日露対話を進めることは政策的に正しい。安倍首相の「新たなアプローチ」もこの枠内での戦術的な手法の変化であるはずだ。

 今回日本側が提案した8項目の経済協力プランは医療、都市、中小企業、エネルギー、産業、極東振興、技術、交流など、プーチン大統領も無視できない重要事項が網羅されている。これと領土問題をパッケージで絡める手法が従来と異なる点なのだろう。最大の問題はロシアが領土問題で戦略的政策変更まで踏み込むか否かだ。具体的には、例えば中国がロシアにとって顕在的脅威となる場合、ロシアは対日関係改善に向け戦略を変えるかもしれない。かかる「外交革命」が現実の選択肢となることは当面ないだろう。だが、今般ロシアで制定された「極東移住推進法」の背景に同地域での中国の影響力拡大に対する警戒感があるとすればロシアの戦略的政策変更が意外に近い将来起きる可能性も排除できない。

 ロシア側に戦略変更の兆候があれば、日本が一歩踏み込み、トライする価値はあるだろう。逆に、それがなければ「時効」を止めるだけのことだ。今後、日露両国が本格交渉に移行するか否かはロシア側の出方次第。ここで気になるのが冒頭のBPDだ。「不安定で激しい他者への怒り」を持つ相手との平和条約交渉は予測不能である。欧米に対する怒りを逆手に取るのも一計だが、プーチン大統領を過小評価してはならない。

 専門家によればソ連崩壊後日露間では北方領土問題の進展を可能とする機会が何度かあったという。今度こそ「三度目の正直」なのか、それとも「二度あることは三度ある」のか。いずれにせよ戦略的利益を犠牲にする領土問題の解決は禍根を残すだけだ。

同シリーズコラム

同シリーズコラムをもっと見る

宮家 邦彦 その他コラム・メディア掲載/論文・レポート

宮家 邦彦 その他コラム・メディア掲載/論文・レポートをもっと見る

外交・安全保障 その他コラム・メディア掲載/論文・レポート

コラム・論文一覧へもどる