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2015.12.25

フィリピン、ソウル、大津の裁判

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2015年12月24日)に掲載

  • 宮家 邦彦
  • 研究主幹
    宮家 邦彦
  • [研究分野]
    外交・安全保障

 今回はある裁判の話をしよう。場所は米国にとって重要な東アジアの同盟国。日本にとっても大切な隣国だ。審査内容は外交問題にも発展しかねない機微な事項。あまりに政治的影響が大きいためか、一度決まった判決公判期日が延期されたほどだ。あぁ分かった、産経新聞前ソウル支局長の名誉毀損(きそん)裁判の話だな。いえいえ、残念でした。この裁判、場所はフィリピンの最高裁判所。争われているのはフィリピンが米国と結んだ新軍事協定の合憲性だ。判決内容次第では東アジア、なかんずく南シナ海の安定を左右しかねない極めて重要な裁判だが、なぜか日本ではほとんど報じられていない。まずは事実関係からおさらいしよう。

 2014年4月末、オバマ大統領のフィリピン訪問時に新たな軍事協定が結ばれた。これで米軍はスービック海軍基地などフィリピン国内の多くの軍用基地を再び使用できるようになる、はずだった。米軍がフィリピンに戻って来るのは91年にフィリピン上院が対米基地供与協定の更新を拒んで以来、四半世紀ぶりのことだ。当時、外務省北米局にいた筆者は在日米海軍関係者に「スービックなしで本当に大丈夫なのか」と何度も詰問した覚えがある。

 ちなみに、スービックと聞いて、昔のオロンガポの異様な街並みをニヤニヤ思い出せる人は少ないだろう。今では想像もつかないだろうが、スービックが米海軍基地であった当時のオロンガポは町全体が巨大な歓楽街だった。筆者も一度だけ米軍の公式ツアーで半時間ほど訪れたことがある。目の前には多数の米海軍水兵とそれ以上の数のフィリピン女性が見えた。米軍関係者が「15分以内に必ずバスまで帰ってこい」と厳命した意味がようやく分かった。それ以上の詳細は言うまい。この手の話は古今東西どこにでもあることを実感させられた、とだけ言っておこう。

 それはさておき、爾後(じご)米軍はフィリピンから撤退した。南シナ海に巨大な力の空白が生まれた。その真空を埋めたのが中国人民解放軍だ。それから南シナ海は徐々に中国のものになりつつあった。

 状況打開の切り札が新たな米比軍事協定だったのだが、1つ問題が生じた。フィリピンの左派勢力が、米国との合意は憲法違反、新協定は無効だとして同国最高裁に提訴したのだ。当初判決公判は11月の予定だったが、その後12月16日、来年1月12日と2度も延期された。報道によれば、15人の判事の中に「新協定は行政取り決めではなく条約であり、上院の批准が必要」と見る向きがあり、いまだ結論が出ていないらしい。うーむ、どこかで聞いたような話ではないか。

 ほぼ同時期、ソウルでは産経新聞の加藤前支局長に対する判決公判が延期され、先週無罪判決が言い渡された。政治的には妥当な判決だろう。裁判に関する筆者のコメントは既に掲載されているので、ここでは繰り返さない。筆者が注目するのは三権分立と裁判官の中立性に関する議論である。ソウルとマニラ、いずれの裁判も争点は極めて機微で、外交問題化しかねない内容だ。ソウルの判決前には韓国外務省から「善処」を求める文書が読み上げられたりもした。この過程で韓国内外では「検察の政治化」「司法は独立していない」との批判が高まった。韓国の裁判官も随分苦労したのではないか。三権分立の下では司法権も統治機構の一部である。政治的中立維持の要請は、必ずしも裁判官の「政治判断」を常に排除する趣旨ではない。

  似たような裁判は日本にもあった。明治24(1891)年、大津で起きたロシア帝国皇太子暗殺未遂事件の裁判だ。当時の大審院は内外の政治的圧力にもかかわらず、司法の独立を維持して無期刑とした。これも立派な「政治判断」ではないのか。裁判官と政治的中立は永遠のテーマである。

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