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2015.05.29

三者三様の「責任論」

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2015年5月28日)に掲載

  • 宮家 邦彦
  • 研究主幹
    宮家 邦彦
  • [研究分野]
    外交・安全保障

 最近日本内外の多くの方々からお便りを頂くようになった。この場をお借りして心より御礼申し上げたい。ご批判もあれば激励もあるのだが、特に目立つのが戦後70周年総理談話に関するご意見だ。この談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」のメンバーという立場上内容の公表は控えるが、これら力作に目を通し、過去の膨大な内外関連文献の一部を改めて読み返してハッとしたことがある。それは基本的に同じだと考えていた「責任の取り方」が国や地域で微妙に異なる可能性があることだ。今回は懇談会での議論をしばし離れ、あくまで一般論としてアジア、欧米、中東での「責任の取り方」につき考えてみたい。

 まずはアジアから。いわゆる村山談話では、「多大な損害と苦痛」を与え、過去を繰り返さない主体が「わが国・私たち」となっている。責任を負う主体が日本国民だから国民全体が反省しているとも読める。中国でも昔のような「日本軍国主義者責任論」は影を潜めた。最近(ネットのニュースサイト)人民網が「第二次大戦の『被害者』を装うとし、戦争の原因と結果は反省せず、最も基本的な歴史の責任感を欠く」と批判した対象も「日本側」だった。やはり責任を負うべき対象は個人ではなく、集団という前提なのだろうか。

 続いて、一部識者が礼賛するドイツの例を見てみよう。有名なワイツゼッカー独大統領の演説の一部を引用したい。1985年に同大統領はこう述べている。

 ●暴政の根源はヒトラーのユダヤ同胞に対する憎悪である
 ●このような犯罪は少数の人々の手によるものである
 ●民族全体が有罪または無罪ということはない
 ●有罪とは、無罪と同様、集団ではなく、個人的なものだ

 同演説で一貫しているのは欧米特有の徹底した個人主義だ。ドイツ式責任論の本質は「ホロコーストなどの犯罪はヒトラー一派の少数によるものだが、ドイツ民族はその記憶を決して忘れない」という論理であり、だからこそ演説中にドイツ民族としての正式の謝罪はないのだろう。このドイツの姿勢を、米ソ対立が深まる国際政治環境の中、同じく個人主義的発想が徹底する周辺国やイスラエルが受け入れ、許し、和解した。仮に日本の首相が同様の論理で同様の発言をすれば、一部隣国はもちろんのこと、日本国内でも大騒ぎになるだろう。

 最後はイスラム諸国。個人的トラウマに属する話だ。カイロでアラビア語を研修していた頃、エジプト人には何度もだまされた。問い詰めると相手は「マレイシュ(気にするな)」と言う。「冗談じゃない、アラビア語にはアースィフ(おわびする)という立派な言葉があるだろう」と求めても相手は絶対に謝らない。それどころか「人間の行動は全て神様が決めるのだから人間に責任はない、だから謝る必要もない」と開き直る始末だ。中東では決して「謝罪すべきでない」と心に誓ったことは言うまでもない。

 賢明な読者はもうお分かりだろう。責任論を集団主義で考える人々には集団主義的な解決があり、これを個人主義的に捉える人々には別の解決手法があり得る。されば責任の最終的帰結を神に委ねる人々には和解のための独自プロセスがあって当然なのだ。それぞれの解決策には長短があり、もちろん相互に参考となることも少なくない。同時に単純な比較による早急な結論が逆効果となるケースすらあることも忘れてはならない。

 責任論を克服し和解する場合、欧米流の個人主義に基づく解決の方が容易なのかもしれない。他方、個人の責任や神の審判に帰すことが難しい集団主義の世界では、一度こじれれば和解により多くの時間と手順が必要なのだろう。これ以上書けば懇談会メンバーとして矩(のり)を越える。国民の間で「責任と和解」の議論が深まることを切に希望したい。

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