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2014.08.07

安保よりも安全が優先する韓国-弱まる国民の対北脅威認識と高まる災害安全意識-

WEDGE Infinity に掲載(2014年8月1日付)

◆事故を巡るメディア報道と「安全」を求める国民の声

 今回の韓国メディアによるセウォル号沈没事故関連報道には際立った特徴がある。それは「社会の安全をいかに構築するか」、「国民の安全意識をどのように向上させるか」という視点だ。後述するように、北朝鮮に対する脅威は低下しつつある一方、事故や災害に対する「安全」意識が高まっている。

 事故発生直後から有力紙では「韓国社会の安全総点検」に焦点を当て、災害時の政府対応を検証する記事が並んだ。例えば、4月29日付中央日報(日本語版)の記事は、「安保(安全保障)に使われる国防予算約34兆ウォンと安全(災害対策)に使われる予算約1兆ウォン」に大きな差があることを指摘し、「政府は冷戦時代の安保志向から脱却し国民の安全のために予算を割くべきだ」と主張するなど、事故発生後の早い段階から今回の事故の問題点を総括し、各省庁の災害対応業務を統括する新しい省庁の創設の必要性を主張する記事が各紙に掲載された。韓国政府側もこれに呼応するかのように「国家安全処」創設の検討を始めた。

 こうした動きは、旅客船沈没事故直後の5月2日夕方ラッシュ時にソウルの地下鉄で列車衝突事故が発生するなど、韓国国内で国民の安全を脅かす大規模火災や事故が多発したこともあり、一層加速されたようだ。

 事故から約1カ月が経過した5月20日、朴槿恵大統領は対国民談話の場で涙を流しながら、犠牲者への哀悼の意を表するとともに、「国家総改造」の一環として今回最も厳しく批判された海洋警察庁の解体を発表した。その後、同大統領は「テロ等はNSC(国家安全保障会議)が対応し、災害については新設する国家安全処が管轄するが、関連省庁が災害発生時にしっかりと連携をとらない場合は該当官庁の長官を懲戒する」方針を示した。


◆民防衛訓練=防災訓練?

 一連の報道の中で筆者が特に注目した記事は、4月25日付朝鮮日報社説(日本語版)「防災訓練、現状に即して見直しを」(同紙同日付韓国語版では「民防衛から実体験訓練に変え、しっかりとやってみよう(筆者仮訳)」)であった。ほぼ同内容の社説が5月9日付中央日報にも掲載されている。

 「民防衛」の定義は「敵の侵攻や、全国または一部の地方の安寧秩序を危うくする災害(民防衛事態)から、住民の生命と財産を保護するために、政府の指導の下、住民が実行すべき防空、応急的な防災、救助、復旧、および軍事作戦上必要な労力支援等のすべての自衛的活動(民防衛基本法第2条第1項)」であり、年に3回の防空退避訓練等を通じて、全国民が非常時に備えるためのものだ。

 前述の朝鮮日報社説は「年に数回行われる民防衛訓練をまじめに行っている国民は少ない」、「制度が形骸化している」と現行の民防衛に批判的だ。筆者自身、韓国滞在時に何度かこうした訓練に遭遇したことがある。警報のサイレンが午後2時に鳴ると、通行中の車輌は停止指示に従うが、周辺の歩行者の中には地下への退避指示に従わない人が多かった。社説の指摘通り、民防衛訓練は形骸化が進み、行政のセレモニーと化していた。

 同紙社説は、北の攻撃を想定した防空訓練における国民の安全意識の無さを憂いながらも、それが日常的な安全意識の欠如につながっていると批判した上で、国家主導の大規模訓練よりも、地方自治体による国民一人一人の意識改革を促す内容に変えるべきだと主張している。こうした指摘に呼応するかのように、民防衛制度を所管する消防防災庁は6月21日に初めて全国規模の火災避難訓練を実施した。しかし、興味深いことに、2010年11月23日に起きた延坪島砲撃事件の際は、「北の挑発に対する備えが不十分だ」との声が上がり、政府は同年12月15日に初の全国民を対象とした緊急防空訓練を実施している。つまり、韓国ではその時々で国民が「安全」を脅かすと考える脅威対象は変化してきているものの、「訓練の形骸化」という問題は相変わらず変わっていないようだ。


◆韓国国民の「安全」に対する意識変化 弱まる北への脅威認識

 日本と同様、韓国でも安全保障を「安保」と略すことが一般的だが、これまでは北からの軍事侵略が「安保」上最大の脅威とされてきた。実際に、朝鮮戦争停戦後も大統領府襲撃事件等北の軍事挑発は続いており、韓国軍は北朝鮮による度重なる軍事挑発を警戒していたのである。しかし、1993年、民主化した韓国は軍事政権から文民政権となり、経済も発展して先進国の仲間入りを果たした。軍事面でも、韓国は北朝鮮よりも遥かに高性能の兵器を次々と導入する一方で、北からの直接的な軍事的脅威は減少した。更に、2000年には当時の金大中大統領と金正日総書記による南北首脳会談が実現するなど、南北間の緊張は大幅に緩和されている。

 一方、急速な経済発展は人口と経済の首都ソウル一極集中をもたらし、ソウルの人口とその周囲を取り囲むように位置する京畿道の人口の合計は実に韓国総人口の約半分を占めるに至った。Google Mapの衛星写真を見れば、北との国境線から数キロの地点に韓国の大型マンション群が林立していることが良く判る。人口集中により飽和し住環境が悪化したソウルを中心に放射状に都市開発が進み、今や北朝鮮との国境近くにまで多くの国民が居住するようになったのだ。

 以上の通り、国民の対北脅威認識は明らかに低下しつつある。これに対し、最近韓国で注目されるようになったのが、大規模事故や異常気象等自然災害に対する「安全」意識の高揚だ。これまでも、1994年にソウル市内で起きた聖水大橋崩落事故、95年に同市内で起きた三豊百貨店崩落事故など一度に何十名、何百名もの犠牲者を出す大事故が発生している。更に、2002年、03年、06年に韓国は台風により甚大な被害を受けている。その意味では、事故や災害に対する韓国国民の意識変化は、今回の旅客船沈没事故により起きたのではなく、既に以前から始まっていたと考えるべきだろう。

 特に最近では、国民がメディア報道を通じて諸外国の災害対応・対策を知る機会が増え、災害に備える社会制度の必要性をより身近に感じるようになった。また、SNS等のソーシャルメディアの発達により、大規模な事件・事故が発生すれば、政府が情報を把握し対応策を発表する以前に、多くの国民が「現場からの生の情報」を既に把握できるようにもなった。このような諸状況の変化に対応できなかった韓国政府が今回厳しく批判されたのは当然なのである。


◆韓国の国防政策とその矛盾点

 しかしながら、仮に韓国国民の対北脅威認識が低下しても、南北軍事対立という現実は変わらない。北朝鮮は6月26日に射程300キロの多連装砲を、続く29日と7月9日、13日、26日に射程500キロのスカッドミサイルをそれぞれ発射した。これらはすべて韓国国内が射程内に入る兵器である。特に、ソウルを中心とする首都圏地域はこれらの兵器による攻撃に極めて脆弱である。関係機関による被害見積に差異はあるものの、一度北の攻撃が始まればソウルなど大都市の被害は韓国民だけでなく、韓国経済そのものを崩壊させるだろう。もちろん、3万5000人を超えるとされる在留邦人への影響を見逃すことはできない。

 現在の韓国の国防体制は、高度な情報収集能力を駆使して、北の挑発または大規模な攻撃または攻撃準備を瞬時に察知し、圧倒的な軍事力で北に打撃を与え、北の攻撃能力を無力化するというものだ。具体例を挙げれば、現在韓国国防部が多額の国防予算を投入し導入を計画している「キルチェーン」と呼ばれる防衛システムがある。弾道ミサイル攻撃に対しては、日米ミサイル防衛(MD)とは一線を画した韓国独自のミサイル防衛システム(KAMD)の導入を計画している。

 こうした最先端技術を駆使した防衛システム構想が実現に向けて動き始める一方で、最近韓国軍内では、戦闘機に搭載されたミサイルが離陸時に落下したり、駆逐艦の電力が海上ですべて喪失し攻撃・自衛能力が無くなる等、現場部隊の装備不良、士気の低下が目立っている。軍事力の基本である兵力の確保も、急速に進む少子高齢化により難しくなってきている。次期中長期国防計画も現在の兵力水準は維持不可能という前提で練られているほどだ。

 また、6月21日に発生した韓国軍の最前線兵士による銃乱射事件も深刻である。事件を起こした兵士は普段から注意を要する「B級関心兵士」とされていたようだが、特別管理対象となる「A級関心兵士」とB級を合わせると全隊員の10%を占めているという。更に、兵役期間が以前に比べ短縮されたため兵力を補充する必要が増えているにもかかわらず、近年は兵役に適応しない若者が増えているそうだ。

 それだけではない。韓国は自力による防衛能力向上を図ろうとしているが、一方で台頭する中国への配慮のためか、日米韓の軍事連携強化が進展する展望は一向に見えない。日米からの軍事技術・情報等の支援または協力なしに韓国は如何にして自前の防衛力を強化できるのだろう。甚だ疑問である。

 過去60年に渡って、韓国がソウルを中心に経済を発展させることが可能だったのは、北に対する抑止力がうまく機能していたからだ。その抑止力の主な構成要素は米韓同盟を基盤とした国防体制であったが、主敵とされた「北」への備えを求める国民の強い支持があったことも重要である。しかし、最近の東アジア地域情勢の変化に伴い、韓国では外交面で中国と接近する一方、内政面では国民から「安全」を求める声が高まるなど従来の対北朝鮮抑止力を重視する考えにも変化が見られるようになった。こうした韓国の変化は日本の安全保障にも大きな影響を与えるだろう。閣僚人事等内政面で苦労が絶えない朴槿恵政権は今後どのような舵を取るのか。韓国の将来を考える上では、対日、対中政策等外交面だけでなく、内政にも十分注目していく必要がある。


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