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2014.06.24

液状化する肥沃な三日月地帯

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2014年6月19日)に掲載

  • 宮家 邦彦
  • 研究主幹
    宮家 邦彦
  • [研究分野]
    外交・安全保障

 日本中がワールドカップ開幕で盛り上がった先週、イラク第2の都市モスルがスンニ系過激派の手に落ちた。めったに驚かない筆者も今回はショックを受けた。なぜこれを予測できなかったのか。中東アナリストの端くれとして大いに恥じ入った。実は新年早々彼らはバグダッド西方の町ファルージャを再占拠している。ここは自省を込めて本年1月6日筆者が書き記したメモの一部からご紹介しよう。

 ◆正月早々ショックだったのはISIL(イラク・レバントのイスラム国)がファルージャを制圧したというニュースだ。

 ◆ファルージャといえば、筆者の2度目のバグダッド勤務となった2004年春、米軍が大規模掃討作戦を行ったスンニ派地域。同時期に日本人の若者3人が「人質」となったことで日本でも有名な町だ。あれから10年になる。

 ◆当時ファルージャは「イラクのアルカーイダ」の拠点だったが、結局米軍による掃討作戦は成功せず、その後武装勢力のテロはイラク全土に広がった。そのファルージャが再びアルカーイダ系の勢力に制圧された。やはり来るべきものが来たということだ。

 ◆「平和」という言葉を何百回唱えても、平和は来ない。誤解を恐れずに申し上げれば「平和」とは悪事を働く武装集団を、よりましな武装集団が圧倒的な武力で制圧し悪事を働けない状態にすることで初めて回復されるのだ。

 ◆2011年末に米軍がイラクから撤退した以上、いずれこの日が来ることは覚悟していた。十分な米軍の支援を受けることができない現在のイラク軍にはファルージャを制圧する能力がないからだ。

 恥ずかしながら、当時こんな偉そうなことを書いていた筆者も、モスルが陥落するほどイラク正規軍が弱体化していたとは正直思わなかった。

 当然米国ではトップニュースだ。過去10年米軍が創設し手塩にかけて育てたイラク国軍がモスルであっけなく「蒸発」した。これはブッシュ、オバマ両政権による一連のイラク支援・撤退政策が失敗したことを意味するからだ。

 湾岸地域でも緊張が走った。イラク北部でのスンニ系過激派の伸長は中東湾岸地域における「サウジ的なもの」と「イラン的なもの」との戦いが新たな段階に入ったことを意味するからだ。

 さらに中東全体へのインパクトも大きい。シリア・イラク国境だけではない。20世紀初めに西欧列強が引いた国境そのものの信頼性が崩壊し始めたことを意味するからだ。

 2011年末の米軍撤退でイラクには「力の空白」が生じた。空白を埋める諸現象がついに始まったのだ。シリアから戻ったスンニ系過激勢力がイラク西部を支配下に置けばクルド人はキルクークを占領しトルコ人はイラク北部に介入する。ペルシャ人はバグダッド以南を防衛すべく国境を越える。

 地政学的に見れば過去3千年間幾度となく繰り返されてきたメソポタミアの悲劇がまた起きるのだろう。新たな変化は始まったばかり、結末は誰にも見えない。

 これだけの大事件が起きていながら日本ではワールドカップよりも扱いが小さい。中国・北朝鮮などとは異なり、マスコミから中東情勢の解説を求められることもない。10年前多くの日本人が犠牲となり、陸上自衛隊まで派遣され大騒ぎとなったイラクのことなど今や誰も関心がない。これが多くの日本人中東屋の偽らざる本音だと思う。

 中東屋といえば、最近別府で昔の外務省の同僚と再会した。優秀で実直な中東専門家だったが、筆者より10年ほど早く退職した。実家の鉄輪(かんなわ)温泉で旅館の3代目として昭和の香りが残る古い湯治場をやはり実直に守っていた。外務省に残っていたらさぞ活躍しただろうとも思ったが、別府ではさまざまな国際親善活動を手伝っているようだ。日本全体にとってはこの方が適材適所なのかもしれない。

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