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2018.09.06

支給開始年齢引き上げだけでは終わらない?―ロシア年金制度改革の行方

  • 吉岡 明子
  • 研究員
    吉岡 明子
  • [研究分野]
    海外情報・ネットワーク

● ロシアはソ連時代、共産主義的イデオロギーと極めて低かった平均寿命を背景に、1930年代に「年金受給者の負担なし」、「極めて低い受給開始年齢」という世界に冠たる年金受給者に対し寛容な年金制度を創設した。

● ソ連邦崩壊時に、経済の混乱とルーブルの暴落により、軍人、公務員、学者といった社会のエリート層を形成してきた国民を含め、年金生活者は年金が極めて少額になるという危機に直面した。

● 上記の問題はその後の経済復興により解決されてきたが、平均寿命の延びや少子高齢化に伴い、現在の年金制度が持続性に欠けるという認識は強く、政府も雇用者負担の導入などの改革案を出してきたが、根本的な問題は解決されてこなかった。

● 今回、政府はついに年金支給年齢の抜本的な延長をコアとする改革案を発表したが、国民の反対は強く、8月29日にプーチン大統領はテレビ演説で一定の妥協案を提示した。今後の動向が注目される。




大統領自らが国民にメッセージ

 8月28日、ロシアのテレビ各局は番組表の改編作業に追われた。翌日に急遽プーチン大統領の国民に向けたビデオメッセージを流すことになったためだ。かくして翌29日の正午、ロシアでは複数のテレビ局で一斉に、およそ30分にわたるプーチン大統領のビデオメッセージが放映された。メッセージの中身は、年金改革の必要性についての切実な訴えと、政府が6月14日に打ち出した年金制度改革案の一部修正に関するものだ。改革案の修正は、女性の年金支給年齢を政府案の63歳ではなく60歳とすることで緩和を図る提案を柱とし、その他年金支給前の労働者の雇用確保に向けた政策や、3人以上子どもを持つ女性への優遇策、年金支給額の増額など複数に及ぶ。妥協を示すことで国民の理解を得たい考えだが、大統領自らが年金改革の必要性やその中身について直接訴えるのはこれが初めてであり、極めて異例のことだ。

 6月に政府が発表した年金改革案の骨子は、年金の支給開始年齢を男性については現行の60歳から65歳に、女性については現行の55歳から63歳に、2019年から段階的に引き上げるというものだったが、国民からは猛反発の声が上がっていた。ロシア全土で年金改革に反対するデモが行われ、インターネット署名サイト「Change.org」では改革反対の請願への署名が300万人近く集まった。ロシアの独立系世論調査機関「レヴァダ・センター」が7月末に行った世論調査でも、実に90%の国民が年金支給年齢の引き上げに反対の立場を示し、政府や与党の支持率はもちろんのこと、76%という高い得票率を得て3月に再選されたばかりのプーチン大統領の支持率も、年金改革発表以降急落した。

 ロシアでは、夏の間はダーチャと呼ばれる郊外の別荘で過ごす習慣があり、政治の話題もその間は「夏休み」に入るのが通例だ。今年も8月になって年金をめぐる議論にも若干落ち着きがみられていたが、一方の政府は年明けの1月1日には法案を実行に移したい考えで、夏の間も着々と準備を進めてきた。8月21日には議会の公聴会が開催され、前述のプーチン大統領の修正案を下敷きにして、9月下旬には法案の審議が再開される見通しだ。こうした政府の動きに対し、反体制派指導者の急先鋒アレクセイ・ナワリヌィ氏が国民に9月9日に「年金の乱」と名付けた大規模デモを行うよう呼びかけるなど、秋以降、年金問題が再びロシアを揺るがすことが予想される。なお、ナワリヌィ氏自身は1月に無許可の集会を行ったことを理由に、8月25日になって治安当局によって拘束されたが、同氏の陣営は予定通りデモを行う予定だという。

 こうした政府の動きに対しては、秋にロシアの多くの地域で地方議会の選挙や知事選が控えていることもあり、実は与党や一部政府の間でも、現行案は拙速すぎるとして、年金支給年齢引き上げの時期を先延ばしにする案や、支給年齢の引き上げ幅を最小に抑える案など、妥協的な解決を図ろうという動きが出始めていた。プーチン大統領が今回示した妥協案は、こうした政権内の反対を抑える狙いもあったものと思われる。

 では、なぜ今ロシアの政府はこれほど急な形で年金改革の話を進めようとしているのか。実は、ロシアの年金制度改革の必要性については、過去四半世紀以上もの間、度々メディアや専門家の間で取り上げられてきたテーマである。例えば、クドリン元財相・現会計検査院長官も、年金支給年齢引き上げの必要性を発信し続けてきた一人だ。しかし、国民の痛みを伴う年金の抜本的な見直しは、ロシアの政治の世界において長年タブー視されてきた問題でもあり、プーチン大統領自身、2005年には「自分が大統領の間に年金の支給開始年齢を引き上げることはない」と断言している。それでも、今回その大統領自らが国民に訴えかける形を取ってまで改革に踏み切ろうとするのは、それだけロシアの年金問題が「待ったなし」の差し迫った状況になっている現れだと言えよう。

 そもそも、今のロシアの年金制度の基礎が確立されたのは、ソ連時代の1930年代のことだ。当時のロシア人の平均寿命は43歳だったが、実は今日まで一度も年金支給年齢が引き上げられたことはない。だがその一方で、近年はロシアでも他の先進諸国同様、人口の高齢化が社会の深刻な問題となってきている。1930年代当時は1人の年金生活者を7人の現役世代が支えればよかったが、近年では毎年40万人ずつ労働人口が減少していくなか、現役世代2人で年金生活者1人を支える状況に近付きつつある。ロシア国家統計局によれば、2045年までにこの構図はさらに悪化し、1人の年金生活者を1.5人の現役世代が支える危機的状況が訪れるとされる。しかも、プーチン大統領は今年5月の大統領令で、2030年までに国民の平均寿命を80歳まで引き上げるという意欲的な目標を打ち出しており、その実現の可否はともかく、高齢化が進むロシアにおいて、年金基金の赤字がロシアの財政を今後さらに圧迫していくことは明らかだ。

 では、年金改革の必要性が差し迫っているなかで、国民がここまで強く反発する原因はどこにあるのだろうか。ひとつにはロシア人の平均寿命の問題が存在する。現在のロシア人の平均寿命は72.9歳だが、男性に限れば66歳だ。つまり、今回の改革案では、男性に関してはほぼ平均寿命まで支給開始年齢が引き上げられることを意味する。特に地方では、男性の平均寿命が65歳に満たない地域も多く見られ、今回の改革案が実行されれば、年金を受けることなく死ぬまで働かされるのでは、という絶望感が国民の間に広く存在する。

 一方、ロシア人女性の平均寿命は77歳で、女性の年金支給年齢が63歳(プーチン大統領案では60歳)に引き上げられたとしても、年金を受ける期間は男性に比べれば長い計算だ。ただし、ここにはまた別の問題が存在する。ロシアでは伝統的に共働きの家庭が多く、忙しい両親に代わって子どもの面倒を見るのは一般的に祖母の役割と考えられている。今回の改革案通りに女性の年金支給年齢が引き上げられれば、祖母がその年齢まで働き続けることになり、子どもの面倒を見てくれる人がいなくなる――。ロシアの子育て世代にとってこれは切実な問題で、そのため今回の年金支給開始年齢の引き上げ案に対しては、若い世代の間でも反対の声が大きいのである。


ロシアの年金制度

 では、ロシアの現行の年金制度はどのような仕組みになっているのだろうか。ロシアでは年金制度はこれまでにも何度か修正が試みられてきており、非常に複雑化して分かりにくいものとなっているが、非国家の年金基金を別にすれば、連邦の年金基金から支払われる「強制年金保険制度」と、連邦予算から支払われる「国家年金保障制度」とに大別される。後者の「国家年金保障制度」は、国家公務員や軍・治安機関関係者、放射線関係の労働者など、国民の一部の人のみが加入できる制度である。その他社会的弱者のための社会年金も、この枠組みの中で賄われる。他方、一般的なサラリーマンや自営業者が加入するのは、「強制年金保険制度」のほうで、現在支給開始年齢が問題になっているのは、この「強制年金保険制度」のなかの「老齢保険年金」と呼ばれる制度である。実は最も一般的なこの「老齢保険年金」の制度には、支給開始年齢以外にも深刻な問題が存在している。

 まずは、この「老齢保険年金」の仕組みを簡単に見ておきたい。「老齢保険年金」は、国民(被保険者)が年金支給開始年齢に達した際に、必要就労期間(年金保険料を収めた期間)を満たしていることを条件として受け取ることができる年金だが、2015年以降はさらに個人年金係数というポイント制度が、支給の条件として加わるようになった。いわゆる「年金ポイント」と呼ばれる制度である。

 この「年金ポイント」は、被保険者の給与額(正確には給与額に則した年金保険料)に応じて毎年国から交付されるもので、年金支給年齢に達した際に一定ポイント数を保有していなければ、年金を受ける権利を喪失する。2018年時点では、年金支給に必要なポイント数は13.8ポイントだが、毎年引き上げられる計画で、2025年には30ポイントの保有が必要になると定められている。

 年金の支給額自体も、被保険者が保有するポイント数によって左右される。年金支給年齢に達した際に保有するポイント数の合計が、国が毎年定める換算レートによってルーブルに換算される仕組みである。このポイントによって算出された金額に、定額の年金が加算されたものが、被保険者が受け取る毎月の老齢保険年金の総額となる。つまり、老齢保険年金の額は、次のような数式で算出される。


  老齢保険年金=A×B+C

    A:年金ポイント数(年金支給年齢に達した際に保有しているポイントの総計)

    B:年金ポイントの価格(国が毎年設定。2018年は81.49ルーブル)

    C:定額支給額(国が毎年設定。2018年は月額4982.9ルーブル)


 このように、「老齢保険年金」の金額は、被保険者が就労した期間内に受けとったポイントの数に左右される仕組みなのだが、ここに大きな落とし穴が存在する。ロシアの場合、年金保険料を納付するのは被保険者ではなく、被保険者である従業員を雇う企業や組織、つまり雇用主の側である。雇用主は、被保険者である従業員に支払う毎月の給与の22%にあたる金額を、年金保険料として年金基金に収める義務を負う。

 ここで、「灰色の給料」という問題が起こってくる。一部の雇用主は、従業員である被保険者に実際に支払っている給与額より少ない給与額を書面上で処理することで、年金保険料の節約に努めているのである。この書面上の給与額が「灰色の給料」と呼ばれるニセの給料だ。雇用主が支払う年金保険料が少なければ、当然、被保険者である従業員が国から受け取るポイント数も少なくなり、それによって定年後に受け取る年金額も少なくなる。場合によっては、ポイント保有数が年金支給のための条件に満たないケースが出てくる可能性も指摘される。

 一般に、従業員は自分の年金保険料がいくら支払われているかを知らないケースがほとんどで、退職後に初めて自分が受け取る年金の額が、本来の金額よりずっと少ないことを知るのである。しかも、こうした「灰色の給料」の問題は、中小企業のみならず一部大手企業でも見られ、今ロシアで深刻な社会問題となっているである。

 ちなみに、「強制年金保険制度」には「老齢保険年金」のような保険年金とは別に「積立年金」も存在するが、この「積立年金」には1967年以降に生まれた世代にしか加入できないうえ、2014年以降この制度自体が凍結されており、新たな加入ができないようになっている。こうした年金政策の一貫性のなさもまた、国民の間で政府への不信感を増大させる一因となっている。


抜本的な改革はあるか

 さまざまな問題を抱える現行の年金制度について、支給年齢の引き上げだけでは抜本的な改革にはならないとする議論が、ロシアのマスコミや専門家の間で、この夏の間、終始指摘されてきた。実際に、ゴリコワ副首相は6月17日にテレビ番組の中で、2015年に開始されたばかりの上述の「年金ポイント制」を廃止し、全く新しい年金制度を導入する計画について述べている。ポイント制に代わる新しい年金制度として、現在財務省と中央銀行が導入を検討しているのが、「個人年金資本制度」である。シルアノフ財務相によると、政府はこの秋にも同制度に関する法案を議会に提出する予定だという。実現されれば、ロシアの年金制度にとっては大きな変革となる。

 これまでのロシアの年金制度では、上述してきたように、雇用主が被保険者である従業員の年金保険料を支払う仕組みが取られてきた。しかし、財務省の説明によると、この新しい「個人年金資本制度」のもとでは、被保険者である従業員自身が、給与の一部(6%程度が想定されている)を自発的に積立てていく仕組みとなる。「自発的」と言っても、財務省と中央銀行の当初の案では、従業員は自動的にこの積立制度に組み込まれることになり、実質的には半強制的な仕組みだ。これに対し、新制度への半強制的な移行は低所得者層の暮らしを直撃するとして労働省が猛反発し、現在は「個人年金資本制度」に加入するか否かについて、被保険者の自主性をより尊重する仕組み作りが検討されている模様だ。ただし、財務省・中央銀行と労働省のつばぜり合いは今なお続いており、いまだ着地点は見えてこない。

 この「個人年金資本制度」導入の賛否については、一般の国民の側からすると、年金保険料というのは雇用主が負担するものという意識が強く、保険料の一部とはいえ自らが負担を背負うことへの心理的な反発が非常に大きいのが実情だ。ただでさえ少ない給与から、積立に回す余裕などないというのがほとんどの国民の率直な感情であろう。さらに、以前実行に移された「積立年金」制度が、前述のとおり運用開始から早々に事実上凍結されるという事態に陥った経緯もあり、積み立てた年金が本当に自分たちに返って来るのかについて、国民は不信感を募らせている。

 国民のこうした反発や不信感の背景には、国民の間に蔓延する「不公平感」の存在が大きい。今回、支給年齢引き上げが検討されているのは、一般サラリーマンや個人事業主などが対象だが、彼らから見れば、国家公務員や軍・治安機関の職員など「国家年金保障制度」によって国庫から直接年金を受ける人々との間には、歴然とした「不公平」が存在すると映る。実際に、軍や治安機関関係者については、軍事関連の学校で教育を受ければその期間も就労期間と見なされるほか、僻地での1年間の勤務は1.5年分、場合によっては2年分の就労期間として計算されるなどの優遇策が取られており、最も早い場合では30歳にして既に年金の申請が可能なケースもあるという。年金支給額もサラリーマンの場合の年金支給額は平均して月に14,000ルーブル(およそ24,000円)程度なのに対し、軍人の場合は最低でも20,000ルーブル弱の年金を受け取ることが可能だ。

 さらに、ロシアでは「老齢保険年金」加入者のなかでも、教師や炭鉱労働者など一定の職業に就く人や極北など特殊な地域で勤務する人は、既定の年齢より早期に年金を受け取ることが可能な「早期年金支給制度」が存在する。この制度の恩恵を受ける人々の数は、実に年金生活者全体の3分の1にも上ると見られる。逆に言えば、残り3分の2の年金生活者が3分の1の早期に年金を受け取る人々の分まで負担を強いられていることになる。こうした現状のなかで、最近になって、連邦議会の議員らに高額の「議員年金」が支払われている実態が明るみに出されるなど、一般の国民が抱く「不公平感」はますます強いものとなっている。

 実は、前述の国家公務員や軍・治安機関関係者というのは、まさに現プーチン政権の最も強固な支持基盤を形成する人々である。同様に、「早期年金支給制度」の恩恵を受ける年金生活者もまた、政権にとっては非常に重要な票田となっている。だからこそ、一般の国民の年金だけではなく、上述の議員年金の廃止を含め、政権の支持基盤を成すこうした人々の年金についても、国として公平公正な態度で改革を行っていく覚悟を示すことが今後求められていくであろう。

 ただし、今回、8月29日にプーチン大統領自身が妥協案を示したことで、今後の改革の行方は、この大統領案の枠内での議論に限られる可能性も出てきた。そうなれば、抜本的な改革はむしろ遠のいていくことになる。今後の動向を注視していく必要がありそうだ。

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