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2013.04.22

教師の人間力を鍛え、リーダーを育てる―中国の古典を人間教育の土台とした杉並師範館のチャレンジ―

JBPressに掲載(2013年4月22日付)

  • 瀬口 清之
  • 研究主幹
    瀬口 清之
  • [研究分野]
    中国経済・日米中関係

 今年も新年度がスタートした。通勤途上で真新しい制服の学生や新卒の社会人を見かけると、不思議と杉並区の小学校の教育現場で新学年を迎えている先生たちのことが胸をよぎる。私は、2009年春に杉並師範館の塾長補佐を拝命し、2年間杉並区の小学校教師の養成プロジェクトに携わった。


■地域密着型の教師を養成する杉並区の画期的な取り組み

 杉並師範館とは、杉並区が区立小学校の教員を独自に育成し採用するために設立された組織である。2006年4月に開塾し、2011年3月に閉塾するまでの5年間に120余名が卒塾し、杉並区の教員として採用された。

 現在、公立小中学校教員は各都道府県が採用する制度となっており、人事権も都道府県の教育委員会にある。杉並区はそれとは別枠で教員を独自採用することにより人事権を杉並区で掌握できるようにした。文部科学省は地域全体で学校教育を支援するため、学校と地域との連携強化を重視している。しかし、公立学校の教師は数年に1回の間隔で都道府県内の異なる地域の学校の間を異動するローテーションが組まれているため、一つの地域に長年勤務するケースはごく稀である。このため、教師の側に特定地域に対する愛着が生まれにくく、学校と地域との連携体制構築と言われても難しいのが実情である。

 そこで杉並区では、杉並区から他地域に異動しない教師を任用できるようにすることを目指し、区民の税金を使って独自の教員採用に踏み切った。当時の山田宏区長の強力なリーダーシップと杉並区教育委員会及び杉並師範館関係者の献身的な努力の積み重ねがあって初めて実現した画期的な事業である。数倍の選抜試験の難関を突破して入塾試験に合格した塾生は、4月に入塾してからの1年間、主に週末に杉並師範館に通い、「気高い精神と卓越した指導力をもった人間力豊かな教師」となることを目指す。

 田口佳史先生の中国古典の講義を学びの中心に据え、三重野康・元日銀総裁、小林陽太郎・元富士ゼロックス会長、今道友信・東大名誉教授など日本を代表する各界の錚々たる有識者を師範館の講師にお招きし、人間としての生き方などを説いていただくという非常に贅沢なメニューだった。外部講師は殆どがボランティアである。杉並区立小学校の教育現場第一線からも多くの先生方が実践的指導に来てくださった。

 夏には合宿を実施し、1学期を振り返り自分自身を見つめ直したほか、共同作業を通じて塾生相互間の連帯感を高めた。また、区の清掃局の清掃車に一日乗り込んで生ごみ回収を実体験したほか、公衆トイレの清掃などを通じて感謝の気持ちを学んだ。2学期には杉並区立小学校に一人ないしは二人ずつ引き受けて頂き、現場第一線の先生方の温かくかつ厳しい指導の下、教育実習を通じて授業や学級経営の難しさを痛感した。しかし、子供たちにも励まされ、必死に頑張り通して人間的に大きく成長した。

 師範館の塾生の負担は大きい。平日は仕事を持つ塾生もいれば大学に通う塾生もいる。週末は師範館で朝から夕方まで特訓である。自宅に帰っても予習復習を怠ればついていけなくなる。途中で脱落すれば、そこで教師になる夢は消える。入塾から卒塾までの1年間、ほとんど休みはない。塾生たちは苦労も多いが、その分成長も早い。4月に入塾した時には頼りなかった塾生たちが夏の合宿や体験学習を越え、秋の教育実習を終える11月頃になると見違えるようにたくましく育ってくる。5人の指導教授の精魂込めた指導と塾生の必死の頑張りが目覚ましい成果を生んだ。

 卒塾直前に杉並区教育委員会による独自の任用試験があり、それに合格すると晴れて杉並区立小学校の教員資格を得ることができる。5年間で120名余りの卒塾生を送り出したが、彼らは今や杉並区立小中学校の中核を担う存在だ。


■テクニックより人間力重視の教師養成

 杉並師範館は実際の授業や学級経営に必要なテクニックより、教師となる人間の内面の力を重視する。子供たちを指導するには、教師自身が立派な人間であること、立派な人間になるためにたゆまぬ努力を惜しまない人間であることが大前提であると考える。そうした精神面の教育の土台は中国古典である。

 現代日本の中国古典研究の泰斗である田口佳史先生が理事長(初年度から3年目までは塾長補佐。当時の理事長は山田区長)として自ら教壇に立ち、中国古典の「大学」をテキストに選び、人間としてのあり方、リーダーとしての心構えを厳しく指導した。日頃の田口先生は大変温和で、人をほめて育てる達人であるが、師範館では別人のように厳しかった。それは限られた短い時間の中で、未熟な塾生たちを何とか教師として恥ずかしくない人間になるまで徹底的に鍛えたいという熱い想いがそうさせたのである。通常田口先生が大企業・中堅企業等の経営者や管理職を指導する時の数倍の集中力で指導に当たっていたため、師範館の講義が終わった時の疲労度は普段とは比べ物にならないと話していた。

 その熱意は塾生、そして指導教授にも痛いほど伝わった。だからこそ塾生も師範館の関係者も全員が並々ならぬ努力を継続した。田口先生は学ぶだけではなく、学んだことを何百回も何千回も繰り返し実践して自分のものとして体得することの大切さを説く。野球部の出身者に一日何回素振りの練習をしたかと問う。さらにプロ野球の選手は何回素振りをするかを問う。プロになるには人一倍の努力が必要であることは明らかである。そこで、塾生全員に対し、教師はプロである。その教師として必要な気高い精神、卓越した指導力、豊かな人間力を身に着けるためには当然人並外れた自己の内面を磨く努力が必要である。塾生はそれだけの努力ができているのかと厳しく問う。教室の空気がピーンと張り詰め、静まり返る。とくに入塾直後の塾生は自分に対する甘さが目立つため、田口先生の講義の内容も一段と厳しくならざるを得なかった。


■江戸時代にもリーダーシップ教育を支えた中国古典

 中国古典は江戸時代の道徳教育のテキストだった。その中身はリーダーシップ教育そのものである。江戸時代、各藩は藩校等の教育機関を通じて人材の輩出を競った。立派な人材を輩出すればその人物が藩の繁栄を支えるからである。そのリーダーシップ教育の成果が見事に実ったのが明治維新である。各藩で中国古典を土台に道徳教育を受けた有為の志士たちが国家危難の時に立ち上がり、近代国家の基礎を形成した。

 日本はいま、リーダー不在の時代と言われる。日本のみならず、世界中を見回しても傑出したリーダーは少ない。一般にリーダーの精神的な土台は小学校時代に培われる。社会を支えるリーダーを生み出すうえで小学校教師の役割は非常に大きい。杉並師範館が輩出した卒塾生は杉並区の教育現場の第一線で日々奮闘している。彼らの胸の奥には今も師範館で養った気高い精神が宿っている。卒塾生たちが建塾の精神を忘れず、たゆまぬ努力を継続して指導力に磨きがかかれば、将来杉並区から日本を支えるリーダーが続々と生まれてくるはずである。

 現在東京都にある教員人事権が杉並区に移管されれば、杉並師範館は閉塾する必要はなかったが、残念ながら結果はそうならなかった。しかし、近い将来、2005年10月の中教審の答申に沿って都道府県の教員人事権が市・特別区に移管されれば、杉並師範館は全国で必要となる。その時には杉並師範館の5年間の実績が大いに参考となるはずである。日本から多くのリーダーを輩出するためにもその日が来るのを心待ちにしている。


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