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2016.04.04

「所得倍増」の故事-自民党内で真摯な政策論争を-

2016年3月17日朝日新聞に掲載(承認番号:A15-2806)

 政府の成長戦略と関連して、1960年の国民所得倍増計画に言及される機会が増えている。

 安倍晋三首相は昨年11月の自民党立党60年記念式典の演説で国民所得倍増計画に言及した。また安倍首相が2013年5月に行った「成長戦略第2弾スピーチ」の中で「農業・農村の所得倍増目標」と農産物・食品の「輸出倍増戦略」を掲げたのも、所得倍増計画を意識したものと見られる。

 1950年代末に、所得が二倍になるという、人々の心に強く訴える用語法をいち早く公表したのは、一橋大学教授の経済学者・中山伊知郎であり、59年1月3日付の読売新聞のコラム「日本の希望」の中で「賃金二倍」論を提唱した。ここで中山は「賃金」を広く被雇用者の所得という意味で使用している。中山の議論の趣旨は、所得の倍増は福祉国家の理想に近づくための具体的方策であり、それは生産性の上昇によって可能、というものであった。

 一方、警察官職務執行法改正案に関する岸信介首相の国会運営を批判して58年末に第二次岸内閣の国務大臣を辞任し閣外にいた池田勇人は、当時大蔵省に在籍していたエコノミスト・下村治らと日本経済の成長について構想を練っていた。その構想と整合的な中山の賃金二倍論は、池田の琴線に触れるものであった。

 当時池田の秘書を務め、後に政治評論家に転じた伊藤昌哉は、池田から中山の新聞記事を探すよう指示を受けたと述べている。池田は59年2月、広島での講演で「月給二倍」を提唱し、以後、繰り返し「月給二倍」や「所得二倍」を訴えた。

 この構想の客観的な基礎は下村によって用意された。59年2月に下村が「金融財政事情」に発表した論文「日本経済の基調とその成長力」は、経済企画庁のエコノミスト・大来佐武郎や一橋大学教授の経済学者・都留重人らとの間で「産出係数論争」を引き起こした。

 下村の議論は、産出の増加が設備投資額に比例するという想定に基づいている。その比例定数が「産出係数」である。産出係数の大きさをどう考えるか、もう一つの制約条件である国際収支に影響を与える「輸入依存度」をどの程度と見るかをめぐって、論争が展開された。

 池田の政策論に対する下村の強い影響は、池田が59年3月に日本経済新聞に寄稿した「私の月給二倍論」から読み取ることができる。池田はその中で、(1)ある年の設備投資は翌年にはその投資額に近い生産力を生み出す、(2)日本の輸入依存度は10%前後であり、国民総生産(GNP)が年率10%で成長しても国際収支が赤字となる懸念はないとしている。(1)は産出係数が1ということであり、(2)の輸入依存度10%とともに、下村が強調した論点であった。

 所得倍増計画は、最終的に60年12月に池田内閣によって閣議決定されたが、そこに至るまでには政治的な曲折があった。中山伊知郎の賃金二倍論のコラムが掲載された59年1月3日の読売新聞には、自民党の党内人事に関して「焦点、反主流の起用」という記事が掲載されている。この記事によると、岸信介首相と大野伴睦自民党副総裁は、党内の「反主流派の大幅起用」による協力体制の確立を期しており、焦点は池田、三木武夫らの反主流派首脳が、重要ポストへの就任を受けるか否かにあった。

 結局、59年6月、池田は第二次岸改造内閣に通産大臣として入閣した。伊藤昌哉は、池田の入閣に関して「もちろん、池田派のほとんど全員が不満だった」と記している。所得倍増を旗印に反主流派として総理・総裁を狙う池田が、岸内閣に取り込まれることに対する不満と見ることができる。

 その後の経過はよく知られている通りである。岸内閣は日米安全保障条約の改定をめぐる政治的・社会的混乱のために総辞職し、60年7月に池田内閣が成立、同年12月に池田内閣の下で所得倍増計画が閣議決定された。

 こうした所得倍増計画をめぐる経緯に関して印象深く感じるのは、当時、自民党の中に政策的・政治的な立場を異にする複数の有力な政治家とそれを支えるグループがあって、厳しく対立しつつ政治的な駆け引きを行っており、そのことが自民党と日本の政治全体に活力を与えていた点である。それらのグループは、90年代の政治改革論議では「派閥」として批判されたが、かつて若き日の渡辺恒雄氏(現・読売新聞グループ本社会長)が著書の中で主張したように、派閥の積極的な意味にあらためて目をむけるべきであろう。

 ひるがえって今日の自民党の状況については、昨年9月の総裁選が無投票に終わったことに象徴的に示されている。日本は、経済財政、安全保障、そして憲法など、重要かつ国民の間に深刻な意見対立を伴う課題に直面している。特に野党が弱体化している現在、自民党内の政策論争の役割は大きい。

 自民党の個々の国会議員、特に有力な国会議員が、池田がそうしたように、これらの基本的な政策に関して真摯(しんし)で野心的な議論を提起することを期待したい。



*朝日新聞社に無断で転載することを禁じます。

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