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2015.10.20

TPP交渉妥結 今こそ冷静に考えよう

WEBRONZA に掲載(2015年10月6日付)

木を見て森を見ず

 TPP交渉が妥結した。これまで、交渉は漂流するというのが、ほとんどの論調だった。

 私が8月初めにある放送局のラジオ番組に出演した際も、論説委員の方は、7月の交渉でこれだけこう着した状態が、短期間で解決できるはずがないという主張をされていた。しかし、フロマン・米通商代表の動きではなく、オバマ政権がどう考えているかという、より大きな構図を考慮すると、「漂流する」という結論にはならないはずだった。

 オバマ大統領は政権のレガシーをTPPに求めていた。連邦議会とは対決姿勢を貫き、ほとんど議会工作や根回しをしてこなかったと批判されてきたオバマ大統領が、通商交渉の権限を議会から政府に授権してもらうTPA法案の成立については、自らペロシ民主党下院院内総務の説得に乗り出すなど、積極的に動いていた。TPP妥結のためには、TPA法案の成立が必要だったからだ。

 多くの論調は、木を見て森を見ていなかった。医薬品業界の支持を受けている有力議員にクギをさされているフロマンは、新薬のデータ保護期間について譲歩できないが、TPP成立にかけているオバマは、カードを切れる。時期は少しずれたが、私が8月4日の小論「TPP交渉は漂流しない、8月に合意する」で述べたとおり、今回妥結した。

 また、多くのメディアは、巨大な自由貿易圏が出来上がるとして、TPP交渉妥結を一様に歓迎している。取材をしていると、取材している対象と一体感を持ちがちである。7月の交渉決裂の時には、各国交渉団は悲観的だった。これが「漂流する」という報道になった。今回は、ようやく交渉を妥結したという高揚感が、交渉団にはあった。それが、メディアの報道にも表れているのだろう。


政府や交渉団から距離を置いてみよう

 しかし、政府や交渉団から距離を置いて、冷静に考えてみよう。

 輸入される食品が安くなるというメリットが強調されている。しかし、我が国の工業製品の関税は、すでにゼロまたは低税率となっている。農産物についても、品目数でいうと、24%がすでに税率ゼロ、48%が20%以下となっており、これらの関税がゼロになっても、それほどのメリットはない。

 他方、100%以上の関税がかかっている農産物は、品目数では9%と少ないが、米、小麦、砂糖、バター、脱脂粉乳など、食生活に大きなウェイトを占めるとともに、パンやお菓子など他の食品の原料となるものが多い。これらの関税は今のまま維持される。フランス産エシレのバターを買うには、300%以上の関税を払わなければならない。牛肉の38.5%の関税が9%になるのは、16年後である。

 このように関税撤廃の例外を多く要求したために、アメリカが自動車にかけている2.5%の関税は、15年後に削減が開始され、25年後になってやっと撤廃されることになった。9月上旬に日本記者クラブで講演した際に、農業関係の新聞記者から、こんなメリットの少ない協定に参加する意味があるのかという質問を受けた。しかし、そんな協定にしたのは、あなたがた農業界ではないのだろうか?

 農業については、関税を維持した米だけではなく、関税を削減する牛肉や豚肉についてもほとんど影響はない( 「このままのTPPでは農業の合理化は望めず」7月13日付け小論)。TPPで農業が影響を受けるという一部の報道や有識者の意見は、誤っている。

 米の輸入枠を米豪向けに新たに7.8万トン設定するが、内外価格差が解消している現状では、輸入されない( 「コメの内外価格差が消えた 減反を廃止する環境がととのってきた」4月10日付け小論)。減反を強化して国産米価を上げれば輸入されるようになるが、その時は、これまでと同様、輸入米と同量の国産米を買い入れてエサ米などに安く処分する。農業には影響はない。得をするのは米豪の農家であり、この財政負担で損をするのは、納税者である我が国民である。


TPPのメリットとは

 もちろん、メリットもある。

 第一に、他の国の市場へのアクセス増加である。アメリカの自動車関税などを除き、日本が輸出する農産品も工業製品も、相手国の関税が引き下がるメリットを受ける。コンビニ店舗や銀行の支店の出店もより拡大される。また、公共事業などの政府調達も、アメリカ、オーストラリア、カナダ、シンガポール、ペルー、チリについては、今以上にアクセスの範囲が拡大するし、それ以外の国に対しては、新規にアクセスできる。

 第二は、ルールの設定または拡充である。偽造品の取引防止など知的財産権の保護、投資に際しての技術移転要求やローカルコンテンツ要求の禁止、動植物検疫・食品安全措置についての透明性向上や紛争処理のための協議、国有企業と海外企業との間の同一の競争条件の確保、関税削減・撤廃の優遇措置について、域内すべての付加価値を合算することで一定上の付加価値率を実現している物品を対象とできる累積原産地規則など、WTOの規律以上またはWTOでは行ってこなかった分野についての規律が導入された。

 第三に、自由貿易協定は、入るとメリットがあるが、入らないとデメリットを受ける。野田総理(当時)のTPP事前交渉参加の発言を受けて、カナダとメキシコの首脳が、その場でTPP参加を決断したのは、その例である。TPPが大きなものであればあるほど、また大きくなればなるほど、参加を希望する国は増える。また、日中韓、日EU間の自由貿易協定交渉も、加速するだろう。

 以上のようなメリットもあるが、すべての関税撤廃など当初目指したレベルの高い協定は実現できなかった。21世紀型の自由貿易協定と胸を張れるようなものには、ならなかったのではないだろうか。

 なお、TPPについては、通商交渉に詳しくない人たちから、食の安全が損なわれるなど、根拠のない批判が行われてきた。これに対して、協定案文や交渉経緯を明らかにできない政府は、十分な説明や反論を行えなかった。合意内容や協定が確定した以上、政府は根拠のない主張には、堂々と反論すべきだろう。


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