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2011.06.07

第十九回 なぜ国家の役割が高まっているのか

ゲーデルの貨幣-Ⅲ-政策篇(19) 『週刊金融財政事情』 2011年6月6日号に掲載

「市場の失敗」の裏返し
 多くの予想では、アジア・アフリカなどの新興国が今後30年程度は長期的に世界経済を牽引する。また世界の需要が縮小する、しないにかかわらず産業が成熟した日本で保護主義を行う長期的な利益はない。産業保護は、高度成長前期の日本のように幼稚産業を育成する場合には有効かもしれないが、成熟産業を保護しても、競争力の劣化が進むだけである。TPP(環太平洋経済連携協定)への参加は、日本の改革を後押しし、日本が新興国に対して貿易ルールづくりで交渉力をもつための大きな足がかりとなるはずである。
 TPPへの反対論が支持されるもう一つの背景は、金融危機以降、自由貿易を核とした市場システムへの信認が低下し、国家の役割への期待が高まっていることである。日本では、20年間の経済停滞で、中央銀行がインフレ期待を作り出せばコストをかけずに経済成長を実現できるというリフレ論が広がった。これも国家(政策当局)が市場の失敗を是正できるという期待の一種である。

市場危機時の一時的な下支え役
 
不況期に一般に広まりやすい考え方は、自由競争の結果として不況が続くのだから、国家が市場競争を制限する保護主義的な政策を導入すべきだ、というロジックである。しかし、実際は、不況の原因は自由競争ではなく、必要な政策介入は保護主義ではない。
 金融危機後の世界で、二つの点で国家が市場に介入するべき理由がある。
 第一の理由は、民間金融システムに自助努力だけでは埋めきれない「バランスシートの穴」ができてしまったことである。住宅バブル崩壊で、欧米の金融機関が巨大な損害を被り、その損害を民間が自力で穴埋めしようとすれば、金融機関の短期債務の価値が毀損する。金融機関の短期債務は、貨幣(財の交換の媒体)の役割を果たすので、内部貨幣と呼ばれる。バランスシート処理によって金融機関の短期債務の価値が脅かされれば、銀行取りつけと同様のメカニズムで内部貨幣が消失する。
 内部貨幣の消失は、経済を大収縮に陥らせる。これは深刻な外部不経済効果であり、この弊害を避けるためには、政府が民間金融機関の損失を穴埋めせざるをえない。これが、金融危機後に必要とされている政府の介入である。これまでの3年間、欧米政府が民間の不良債権を事実上買い取り、民間金融機関の損失を肩代わりした結果、公的債務が激増している。いまだに欧米の金融システムは政府の支えがなければ機能できない状態が続いている。この意味で、現在の市場経済システムは国家介入に依存している。国家による損失引受けは、市場が機能するうえで不可欠となったのである。しかし、欧米の金融システムのバランスシート問題はいずれ解消する。納税者の負担で損失が処理され、また、新しく発生する利潤で穴埋めされる。金融システムが健全化すれば、政府が損失を引き受ける必要はなくなるので、市場の自律性は自然に回復する。
 つまり、国家の役割が強まったのは、不良資産の処理を進める間の一時的な現象なのである。「市場の時代」が「国家の時代」に変化するような大きな時代の変化が起こっているわけではない。

政府だけが「規制の虜」を解放できる
 もう一つ国家が重要な役割を果たす分野は、金融規制などの市場ルールづくりである。
 金融規制は国家と市場のインターフェースであり、シカゴ大学のラグラム・ラジャン教授がいう「断層線」の一種である。ラジャンは金融危機を引き起こしたさまざまな要因を「断層線」と呼んでいるが、それらの多くは政府と市場のインターフェースに存在している。
 政府は法制度を整備することによって「市場のルール」をつくり、市場参加者はそのルールに従って経済活動を行う。経済学の教科書での想定では、市場のルールは市場参加者にとって与件であり、不変である。ルールが与件なら大きな問題は起こらない。
 しかし現実には市場参加者からの働きかけによって、市場ルールは政治的にゆがめられる。ラジャンはこれが金融危機の主因だという。政治家は、持ち家政策の推進による格差是正という政治的な目的のために、住宅ローンの金融規制を次々に緩和した。金融機関からも規制を骨抜きにしようとするさまざまな働きかけがあった。結果的に市場のルールはゆがめられ、金融機関の暴走と巨大なバブルが発生することになった。
 政府の規制当局が、規制される業者側に取り込まれ、業者の意向によって規制がゆがめられることは以前から知られている。シカゴ大学のジョージ・スティグラー教授が1971年に論文で指摘し、その後、「規制の虜」(Regulatory Capture)という言葉で広く知られるようになった。
 「規制の虜」をいかに解決するかが、現在世界で議論されている金融規制改革の究極的な目標といえる。
 規制の虜は、市場の失敗というよりも政府の失敗である。しかし、規制が問題なのだから、政府の失敗を市場メカニズムで回復するわけにはいかない。政府が規制体系を変更することによって、「規制の虜」問題を解決するしかない。政府の失敗を取り返すのは政府にしかできないという意味で、金融危機後の世界では、政府の役割が重要になっているのである。
 バランスシート問題にしても、「規制の虜」問題にしても、保護主義とは無関係であり、それらに対処する政策は、自由貿易主義と両立する。
 日本は、金融システムのバランスシート問題に直面しておらず、また、震災復興のためにも世界から物資や技術を導入することが必要である。自由貿易を損なうことは日本の利益にならない。
 国家の独立自尊を希求する思いの発露として、保護主義の思想は支持されやすい。しかし、それはより困難な状況を招き寄せる懸念が大きいのである。

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