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2011.05.31

第十八回 TPPと日本経済②

ゲーデルの貨幣-Ⅲ-政策篇(18) 『週刊金融財政事情』 2011年5月30日号に掲載

貿易自由化とデフレの関係
 TPP(環太平洋経済連携協定)への反対論として、マクロ経済上の論点が二つ提起された(中野剛志『TPP亡国論』)。
① TPPに入るとアメリカからの安価な輸入が増え、デフレがひどくなる。
② デフレ脱却のために国内市場を閉じて、公共事業で内需を底上げすべきだ。
 まず、貿易自由化でデフレが進むというのは単純化しすぎた議論である。貿易で他国から安価な輸入品が流入すると、消費者はその輸入品を買って余った所得で他の商品を買う。他の商品の需要が高まり、その価格が上昇するので、物価全体は上昇するかもしれない。また、輸入が顕著に増えれば為替は円安に振れるので、輸入品の円建て価格が上昇し、デフレ圧力は減殺される。さらに、貿易と無関係に、金融緩和政策などマクロ経済環境の変化で貨幣量が増えれば物価も上昇する。
 日本よりも貿易依存度が高い国がデフレではないのに、日本だけがデフレの状態なのだから、貿易自由化がデフレの主要な原因ではないことははっきりしている。したがって、「TPPに参加するだけで日本のデフレがひどくなる」とはいえない。
 二点目の公共投資を増やすべきだという処方箋も有効とは考えにくい。
 理論的には、リカードの中立性命題によって財政政策の需要刺激効果は否定される。政府が一時的に財政支出を増やすと、国民は将来の増税を予想して、現時点での消費を控え、貯蓄を増やす。その結果、現時点の政府需要は増えても民需は減って、総需要は財政政策をしない場合と同じになる。これがリカードの中立性である。
 また、1990年代の経験からいっても、公共事業などの財政政策が民間需要を持続的に成長させる効果は期待できない。90年代は不良債権問題があったために市場に不確実性が蔓延し、民需が盛り上がらなかった。一方、現在は財政破綻のリスクと老後の不安(社会保障制度の不確実性)によって民需が増えない状況にある。ここで公共事業を増やしても、財政についての将来不安を増幅するだけである。公需の増加でごく一時的にGDPの数字は大きくなるが、日本経済を持続的にデフレから脱却させることはできない。
 筆者も、デフレ(需要不足)への対処にはマクロ経済政策を使うべきだと考えるが、財政危機の現状では金融政策を使うべきだろう。「財政健全化+金融緩和」の組合せである。金融緩和によるデフレ脱却という戦略は、「金融緩和→円安の進行→輸出の増加」という経路で外需が増えることを想定している。これはマンデル・フレミング・モデルの結論でもある。国際的な資本取引が自由な場合、金融緩和は外需依存の成長をもたらす。
 ただこの戦略は政治的な軋轢をもたらす可能性はある。オープンな経済での金融緩和政策は、外国の需要を取り込み、外国の生産者を犠牲にして自国の生産を増やそうとする「近隣窮乏化政策」といえるからだ。自国と外国との間のゼロサム・ゲームに近い。昨年、ブラジルの財務相など新興国が、アメリカの極端な金融緩和政策を「通貨安戦争だ」と非難した。新興国の批判は、ゼロサム・ゲームとして金融緩和を理解する観点から、ある程度は正当化できよう。

新興国が牽引する世界経済
 
金融緩和で円安をもたらし、輸出を増やしてデフレを脱却するためには、貿易自由化を進めることが有益である。貿易障壁が少なければ、円安による輸出の増加は一層大きくなる。貿易障壁を除去するTPPへの参加は、この点からも有益だと考えられる。
 しかし、世界的に需要の低迷が続くならば、TPP反対論も一定の説得力をもつ。金融危機後の世界では、各国が需要を縮小させているので外需主導の成長戦略は破綻する、というのがTPP反対のロジックだ。
 世界経済の今後の成長について、世界銀行のモナ・ハダッド氏らの研究グループが興味深い予想をしている。リーマンショック後、新興国の経済成長が急速に回復し、世界経済を牽引しているが、この傾向は長期的に続いていく、というのが彼らの見通しである。とくに新興国や途上国など(非先進国)が、アメリカに代わって、世界の消費市場として存在感を増していく。世界の輸入に占める非先進国の割合は08年現在30%程度だが、90年代後半からこの割合は着実に拡大を続けている。先進国の輸入の世界の輸入に占める割合が96年の90%から08年の70%まで、ずっと減少傾向にあるのと好対照である。また、極端な輸出主導の経済成長を指向する中国についても、20年には中国の貿易の50%が対途上国の貿易となる。非先進国間の貿易(South―South Trade)が今後の世界経済を牽引する。
 NIRAの推計では、アジアの中間層(年間可処分所得5000ドル以上の層)は10年から10年間で倍増し、約18億人になると見込まれる。また、アジアの富裕層(100万ドル超の資産保有者)も増加している。
 中国・インドなどの内需拡大をバブルと危ぶむ意見もあるが、日本の60年代の高度成長がバブルでなかったことを思えば、そうした懸念は悲観的すぎる。アジアの消費市場の拡大は着実に進んでいくと思われる。
 TPP交渉国に新興国は入っていない。しかし、新興国市場を日本企業が参入しやすいような透明性の高い内外無差別の市場にしていくためにも、日本のTPP参加は意義がある。先進国や自由主義的な経済制度を重視する国々で協調してまず貿易の枠組みをつくり、そこに新興国の参加を促すことが自然であるからだ。実際、TPPも、技術移転要求や資源の輸出規制など自国中心の産業政策を追求している中国を念頭においたルールづくりが行われている。
 日本は、こうした貿易自由化の枠組みづくりに主体的に参画し、同時に適切なマクロ経済運営を進めることによって新興国市場を取り込んだ経済成長を目指すべきである。

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