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2011.02.03

第一回 バランスシートの経済学

ゲーデルの貨幣-Ⅲ-政策篇(1) 『週刊金融財政事情』 2011年1月17日号に掲載

バランスシートに映る経済政策の課題
 2008年秋の金融危機から2年あまり過ぎたが、欧米経済の先行きには不透明感がつきまとっている。一方、日本の国内は政権交代を経ても財政再建と社会保障改革の先行きがはっきりせず、将来への不確実性はますます高まっている。日本でも欧米でも、不安と不確実性が非常に高いレベルで続いていくことは間違いない。
 ことに日本の現状は不可解である。財政破綻のリスクが日増しに高まるなかで、金融危機後は一貫して円高が続いている。為替レートは他の通貨との相対関係で決まることとはいえ、通貨の本源的な価値を保証するものは財政の健全性である。財政悪化と円高持続が併存する現状をどう理解すべきなのか。財政の持続可能性と、為替や通貨に関する政策をどのように位置付けるべきなのだろうか。
 世界経済が問題を抱えた状態が続けば、政治や思想にも質的な変化が起こる。たとえば、1870年代から四半世紀続いた世界不況が欧州列強の膨張的な帝国主義を生み出し、その帝国主義的支配体制が1930年代の大恐慌を経て全体主義に変質していった、という説がある(ハンナ・アレント『全体主義の起源』)。今回の世界的な金融危機も、政治や社会思想の面で、これまでと大きく質的に異なった新しい思想を生み出すことになるのかもしれない。
 本連載では、まず日本と世界が直面する経済政策上の課題をできるだけ長期的な枠組みで、整合性のとれたかたちで論じたい。関連して、金融危機後の経済学研究や政策論争についての最近の動向を紹介し、さらに、経済思想や政治思想についても考察を加えたい。 世界やわが国の経済政策の課題を考察する際に、「バランスシート」を一つのキーワードとして議論を整理すると見通しがよくなると思われる。
 バランスシートというと、リチャード・クー氏の「バランスシート不況論」が欧米でも注目を集めている。この議論は、資産バブルの崩壊によって企業や家計が過剰な負債を背負いこまされると、借金を返済しようと必死になるので、その結果、消費や設備投資が低迷する。こうして不況が悪化するので、資産価格がますます下がり、企業や家計のもつ資産の価値が下がって、債務の負担が増大する、という議論である。基本的にはアーヴィング・フィッシャーの「デット・デフレーション理論」と同じ構造の議論であると思われる。政策論としては、財政支出の大幅拡大というケインズ経済学の処方箋を力強くサポートする議論として欧米で注目を集めているわけである。
 クー氏のバランスシート不況論は、金融危機の重要な側面を描写した議論であるが、民間部門のバランスシート問題に関心が集中していて、政府部門のバランスシート問題の困難さについてはあまり重視していない。
 本稿で論じたいのは、企業や銀行だけではなく、政府のバランスシート(さらには海外部門のバランスシート)も含めた全体の問題である。また、企業などの民間のバランスシート問題についても、「財政政策か/構造改革か」という現在の欧米での政策論争に、新たな論点を提示したい。

 政府の危機対策が正当化される理由
 金融危機とは、「民間経済のバランスシートに大きな穴があいた状態」と表現できる。
 危機前に、不動産バブルなどが発生し、資産と負債が両建てで膨張する。バブルが続いている間は、経済全体に存在する資産(不動産、銀行預金、企業株式など)の価値と負債(企業や家計の債務)の価値は釣り合っているわけだが、その後にバブルが崩壊して状況が一変する。
 資産の価値は急落する一方、負債は名目額で固定されている(簡略化のためバランスシート上の資本はとりあえず無視する)。インフレが起こらない限り、負債の実質価値は下がらないので、民間の経済で集計した資産総額を負債総額が上回る状態になる。この負債と資産の差額を、「バランスシートにあいた穴」と呼ぶことができる。
 その後、政府・中央銀行は危機対策として財政政策や金融機関の救済を実施し、経済を浮揚させようとする。
 財政政策などによる金融危機対策は、政府部門から民間部門に資源を移転し、民間のバランスシートにあいた穴を「穴埋め」するプロセスであると理解することができる。本来は民間の主体が倒産処理や破産を通じて自己資本を使ってバランスシートの穴埋めをすべきだが、日本の90年代や現在の欧米経済のように、あまりにも巨額の「穴」(過剰債務)がバランスシートにあいた状態では、民間に存在する自己資本だけでは、「穴埋め」をしきれない。民間の自己資本で処理しきれない過剰債務については、民間債権者が損失を負担して処理するのが本筋である。しかし、バランスシート不況の状況では、二つの理由から、政府による「穴埋め」が望ましいということになる。
 第一の理由は、リチャード・クー氏らが論じているように「デット・デフレーション」を止めることである。債務の返済を急ぐ企業や家計が手持ちの不動産などを投げ売りすると、資産価格が過剰に下落し、債務負担が増大する。これは一種の外部不経済効果なので、政府の介入が正当化される。
 もう一つの理由は、本連載の第二部で論じたことである。つまり、民間債務のかなりの部分が「貨幣」の役割を担っていることである。銀行などの債務が取引の決済に使われること(貨幣としての機能)は、民間債務が一種の外部経済効果を発揮していることを意味する。民間債務の一部が、バランスシート問題のために消滅することは、貨幣の消滅という外部不経済効果が生じることを意味する。さらに、「一部の債務が切り捨てられる」という懸念が市場で広がると、銀行取り付け(bankrun)と同様のメカニズムで、債務総量が急激に収縮する。その結果、外部不経済のダメージも大きく増幅される。
 これらの外部不経済を除去あるいは緩和するために、政府が民間のバランスシートの穴埋めを行うことが正当化される。

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