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2009.12.17

第十四回「『貨幣的な景気変動』というビジョン」

「ゲーデルの貨幣」-自由と文明の未来- 危機編 『週刊金融財政事情』 2009年11月16日号に掲載

労働環境が不変でもレイバーウェッジは悪化した
金融危機や通常の景気循環などのマクロの経済変動が(広義の)貨幣の生成と消滅によって発生しているのだとすれば、マクロの経済変動の要因に関するわれわれの理解を新たにするとともに、これまでと異なった新しい政策的なインプリケーションをもたらすことになる。前回、一つの理論的仮説としてこのビジョンを論じたが、昨年来の金融危機のデータから、この説を支持する一つの状況証拠を得ることができる。それは、レイバーウェッジ(後述)に関係している。今回はその点について詳しくみていきたい。
 これまでの景気循環理論では、おもに、生産性の変動、マークアップ(レイバーウェッジ)の変動、金融政策による実質金利やインフレ率の変動などが景気変動の主要因とされてきた。生産性の変動は、科学技術の進歩や企業組織の構造変化、市場の構造変化など、マクロ経済政策では影響を与えることのできない外部的な要因の変化によって生じると考えられている。新古典派の議論では、生産性の変動が景気循環の主要な原因であるならば、生産性ショックに対して経済システムが最適に反応した結果として景気循環が生じているのであり、景気循環を是正する意義は少ない、とされてきた。
 この議論を額面どおり受け取ると、好況でも不況でも経済システムは最適な状態にあることになり、現実からあまりに遊離している。こうしたニュー・ケインジアンなどからの批判もあり、最近ではレイバーウェッジが景気循環のカギを握る要因として注目を集めている。
 レイバーウェッジは、限界代替率(消費者が一単位の消費を限界的にあきらめるために、代わりに余暇が限界的にどれだけ増える必要があるかを示す率)と限界労働生産性(企業が労働投入を限界的に一単位増やした場合に増える生産量)のギャップとして定義される。ここでは、レイバーウェッジを「限界代替率を限界労働生産性で割った比率」で定義しよう。経済が理想的な完全競争の状態にあるとき、限界代替率は限界労働生産性と等しくなるので、レイバーウェッジは1になる。しかし、現実の経済はさまざまな市場のゆがみがあるため、レイバーウェッジは一般に1より小さな数になる。マクロデータからは、好況のときにレイバーウェッジが改善(1に接近)し、不況のときに悪化(1から乖離)することが知られている。
 レイバーウェッジの変動要因は、これまで労働市場に関連するものと考えられてきたため、景気循環の要因も、労働環境に関連したものが想定されてきた。しかし、今回のアメリカの金融危機で、レイバーウェッジが貨幣的要因で変化することが強く示唆されることになる。
 レイバーウェッジの変動要因についてはいろいろな説がある。たとえば、ニュー・ケインジアンの説明は、賃金が労働組合の独占力によって決まっているために硬直的になっていることがレイバーウェッジを悪化させる、というものである。独占によるゆがみによってレイバーウェッジのレベルが小さくなっているとともに、中央銀行が決める貨幣供給量の変化に対して名目賃金が適切に対応できないために、レイバーウェッジが悪化する、という説である。組合の独占力を変化させられないという前提で考えると、レイバーウェッジを過剰に悪化させないための政策は、中央銀行が物価安定化政策(物価水準を一定の水準に安定させる政策)を採用することとなる。
 ほかにも、労働所得税の増加や労働市場のサーチコスト(求人や求職に伴う諸コスト)の増加も、レイバーウェッジを悪化させる要因として知られている。日本については、1980年代末の労働時間の短縮が、一種の規制強化としてレイバーウェッジを悪化させた可能性が指摘されている。
 こうしたことから、これまでの景気循環論では、労働市場の環境変化や貨幣供給量の変化がレイバーウェッジを変化させ、その結果、景気が変動する、と考えられてきた。この場合の貨幣供給量の変化は、中央銀行が供給する貨幣量(マネタリーベース)の変化のことであり、われわれが注目している信用貨幣の生成や消滅という現象のことではない。ところが、これらの要因はほとんど変化していないのに、今回の金融危機では、米国経済のレイバーウェッジが劇的に変化しているのである。

貨幣の消失現象がレイバーウェッジ悪化を招いた
筆者の研究グループ(専修大学専任講師の奴田原健悟氏とキヤノングローバル戦略研究所研究員の稲葉大氏)が最近の米国経済のレイバーウェッジを計測したところ、2008年第1四半期から直近の09年第2四半期までの間、レイバーウェッジは通常の3倍から5倍のスピードで急激に悪化した。60年以降のデータで確認したところ、悪化スピードはこの50年間で最悪であり、おそらく30年代の大恐慌のころのレイバーウェッジ悪化に匹敵すると考えられる。08年から、消費と生産と雇用が著しく悪化した。消費と生産は09年に入って下げ止まり傾向をみせているが、雇用の悪化はとどまる兆しがない。レイバーウェッジの悪化は、こうした経済実態の悪化を反映しているものと思われる。
 この結果は、非常に示唆的である。08年の第1四半期の前後に、米国経済のなかで労働市場に関連する大きな変化(労働税制、労働市場の制度、組合の政治力などの変化)は起こっていない。これはレイバーウェッジの悪化のおもな原因が、労働環境や賃金の硬直性ではない、ということを示唆している。信用貨幣の消失が今回の金融危機の大きな特徴であることを考えると、レイバーウェッジの悪化原因も貨幣の消失現象であるとみてよいだろう。貨幣の消失で流動性制約が強まり、消費や雇用が減少したために、レイバーウェッジが悪化したと考えられる。そして、通常の景気循環においてもレイバーウェッジが大きな要因となっていることから、通常の景気循環の原因にも信用貨幣の生成と消失が関係していると強く示唆されるわけである。

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