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2009.11.11

第十二回「貨幣論の本質とは何か」

「ゲーデルの貨幣」-自由と文明の未来- 危機編 『週刊金融財政事情』 2009年11月2日号に掲載

循環論法の系譜
「貨幣論」というと、バブル崩壊後の時期に社会人になったわれわれの世代なら、1993年に刊行された岩井克人・東京大学教授の同名の著書(筑摩書房刊)を思い出すのではないだろうか。岩井教授はマルクスの議論を援用しながら「貨幣が貨幣として流通するのは、それが貨幣として流通しているからである」とし、貨幣とは「循環論法を生き抜く存在」であると述べている。
本来、まったく使用価値のない紙切れが、「1万円相当のあらゆる商品やサービスと交換可能である」と社会の構成員全員からみなされているために、1万円分の価値を有する「1万円札」となる。社会の構成員が有する認識(この紙切れが1万円相当のあらゆる商品と交換可能であるという認識)は、一種の共同幻想であり、この共同幻想が貨幣の価値を成立させる。これが、岩井教授のいう貨幣の循環論法である。
 岩井教授の議論を、政府(あるいは中央銀行)が発行する法定通貨について適用することについては、後述するように、若干の問題がある。一方、原始社会で貝殻や宝石が貨幣(すなわち経済取引における交換媒体)の役割を果たすようになったことや、戦時中の捕虜収容所や刑務所で、たとえばタバコが貨幣の役割を果たすようになることのように、自然発生的に貨幣が出現する現象は歴史上世界各地で観測されている。こうした貨幣の自然発生現象は、岩井教授のいう循環論法で説明することができる。
 貨幣の自然発生を前述のような循環論法で説明する理論は、1980年代に清瀧信宏氏(現プリンストン大学教授)とランドール・ライト氏(ペンシルバニア大学教授)の画期的な理論研究で先鞭がつけられ、現在も、ペンシルバニア大学やトロント大学のグループなどで続けられている。
 これらの研究は、貨幣と財の交換過程をかなり厳密にモデル化したものであり、もともとは貨幣の起源を探ることが大きな目標だったが、最近では、2005年にリカルド・ラゴス氏とライト教授による新しい工夫が発表され、このラゴス・ライト・モデルを使って、金融政策についての政策分析にも応用できる理論が発展してきている。これらの最近の貨幣理論では、外部貨幣(貝殻や宝石や紙幣など、使用価値がゼロの物体が、交換の媒体としての役割を果たすようになったもの)がおもな分析対象だが、内部貨幣(すなわち信用貨幣、銀行や企業の債務が決済手段の役割を果たすようになったもの)を分析する研究も進展している。

信用貨幣――自然発生する交換媒体
ラゴス・ライト型の最近の貨幣理論においても、外部貨幣だけが存在するモデルでは、前回論じたフリードマン・ルールの呪縛(デフレ政策が最適な金融政策である、という理論的結論)から逃れることはなかなかむずかしい。しかし、信用貨幣を導入すると、マイルドなインフレが最適な金融政策である、という結論が導かれる場合があることがだんだんわかってきた(ただし、いくつかの強い理論的仮定が必要である)。
 こうした結果は、非常に示唆的である。これまでの貨幣理論は、外部貨幣(紙幣や貝殻など)に焦点をあてていたために、フリードマン・ルールという非現実的な政策提言に陥ってしまったが、内部貨幣(信用貨幣、預金債務など)に分析対象を広げると、おそらくわれわれはフリードマン・ルールの呪縛から解放されるのである。
 そもそも、岩井教授の著書や清瀧・ライトのモデルで強調された循環論法(貨幣が貨幣として流通しているのは、社会の構成員が、それを貨幣として取り扱っているからにすぎない)が真に有効なのは法定通貨などの外部貨幣ではなく、自然発生的に出現する内部貨幣の問題についてである。
 まず、外部貨幣(とくに中央銀行が発行する法定通貨)について、なぜ循環論法による説明が問題であるかを考えよう。1万円札に1万円の価値があるのは、人々が皆そう信じているから、という説明は、確かに正しい。しかし、それだけではない。もし人々の期待(「他の人々もこの紙切れを1万円の価値があると思って取引に応じてくれる」という期待)だけが根拠なら、その期待が壊れれば、1万円はただの紙切れになってしまう。紙幣がただの紙切れになる現象は、ハイパーインフレーションであり、第一次世界大戦後のドイツや中央ヨーロッパの国々で実際に発生した。それらの国でハイパーインフレが止まったのは、そして、現在の日本でハイパーインフレが起こらないのは、政府が徴税能力によって貨幣価値を保証し、国民が政府の徴税能力を信頼しているからである。紙幣は広義の政府(中央銀行)の債務証書であるから、その価値を保証するのは政府の「収入を得る力」すなわち徴税能力である。つまり、法定通貨の価値を支えているのは、貨幣の循環論法だけではなく、政府の財政や徴税能力など、多面的な統治能力なのだといえる。
 これに比べ、金融機関などの短期債務(預金やレポ取引による実質的な短期貸付)が貨幣として機能する場合、それは自然発生的な現象であり、それらが貨幣であることの根拠は、基本的に貨幣の循環論法である。債務の発行体の金融機関が財務的に健全だ、という信頼が信用貨幣の価値を支える根拠の一つだ、と考えることもできる。しかし、リーマンショックの前に、資金を貸し借りしていた金融機関同士が、お互いの財務状況をほとんど何も知らなかったことは明らかである。現実の短期金融市場では、だれも互いの健全性などチェックせずに、お互いの債務を信用して取引しているのである。したがって、信用貨幣の価値を支えている基本的なロジックは、それが貨幣として流通しているから、という貨幣の循環論法なのである。
 岩井教授のいうように、循環論法を生き抜く存在であるというのが貨幣の本質なら、(法定通貨よりも)自然発生的な信用貨幣こそ貨幣の本質を体現している存在だということができるだろう。

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