本文へスキップ

2009.09.15

第二回「財政出動論の根拠はどこにあったか」

「ゲーデルの貨幣」-自由と文明の未来- 危機編 『週刊金融財政事情』 2009年8月10日号に掲載

甦るケインズ経済学
 今回の金融危機は、欧米の論壇で激しい政策論争を巻き起こしている。しかし、そこではかつての日本の政策論争と同様に、貨幣や信用の問題が適切に扱われていないのではないかという印象を受ける。
 フィナンシャルタイムズなどの経済紙や、経済政策論争のためのネット上のブログなどをみると、世界的に有名な経済学者やジャーナリストがさまざまな意見を戦わせている。そのなかで、ケインズ経済学的な言説の復活はめざましい。とくに、昨年の10月から11月にかけて、リーマンショック後のパニックが続いていたときには、財政出動による景気対策と金融緩和を求める声が大いに高まった。歴史的な危機感のなか、通常は政策論争と距離をおくようなアカデミックな経済学者たちも、かなりラジカルな政策提案を発表するようになった。
 経済学者の提言がよく掲載される有名なサイトは、ニューヨーク大学のノリエル・ルービニ教授が運営するRGE Monitorと、ヨーロッパの経済学者の団体CEPR(Center for  Economic Policy Research が運営するVOXEU.orgである。ルービニ教授は今回のサブプライム危機を予言した人物として注目され、その言動(金融危機は最悪期を脱したと7月1日にコメントした)がニューヨーク株価の一段高のきっかけになったことでも有名である。こうしたサイトに掲載された経済学者のコラムや政策提案は、欧米の世論に大きな影響を与えている。たとえばフィナンシャルタイムズのコラムニストであるマーティン・ウルフは、VOXEUに掲載された経済学者の研究内容や政策案を頻繁に自身のコラムで引用している。には、リーマンショック以降、著名な経済学者から何十件もの政策コラムの寄稿が相次いだ。それらのコラムをまとめた政策提言書が4冊も、ネット上の電子書籍(e ―book)として、08年12月から09年3月までの間に出版されている。G20など、金融危機に対する主要国の会議のタイミングに合わせてのウェブページに掲載されたものである。  著名な経済学者たちの政策コラムをみると、多くの経済学者が迅速で巨額の財政出動(と金融緩和)という典型的なケインズ経済学の主張をしていて大変おもしろい。しかし、その「おもしろさ」は経済学を最近の大学院などで専門に勉強した人でないとわからないかもしれない。現在の欧米学界における標準的な経済学の枠組みでは、「財政出動」という政策提言は出てこないはずなのである。つまり、欧米の経済学者たちは、過去半年の間、教科書や自分自身の研究成果のなかに根拠をもたないような政策――大規模な財政出動――を提唱し続けているわけである。高名な経済学者が財政出動を提唱すれば、その意見には、当然、その人の長年の学術研究の経験に基づいた堅固な根拠があるに違いない、と一般人の多くは考えるだろう。しかし、そうではなかった。欧米の高名な学者たちはプロの研究者の立場から離れ、いわば一人のコメンテーターとして発言しているのである。政治家やジャーナリストなどが「とにかく眼前の失業や倒産を防げ」と財政出動を主張するのと、理屈も意図もさほど変わるところはない。平時はきわめて職業的で慎重な欧米の経済学者たちがリーマンショック後にここまで変わるとはちょっと想像できなかった。だからおもしろいのである。
 この点については多少の補足説明をしておく必要がある。
 もちろん、ケインズ経済学は学術的に認められた考え方だ。しかし、ケインズ経済学が主張する財政出動の効用とは、あくまで景気悪化のオーバーシュートを防ぐ一時的な「痛み止め」で、金融危機の原因を除去して金融危機そのものを解決する効果はない。つまり、「財政政策で金融危機の原因を除去し、市場に広がった悲観論を払拭し、景気を反転させて好況に導くことができる」とは、ケインズ経済学の論理からはいうことができないはずなのである(ところが、昨年秋からの欧米論壇ではそういう主張がなされている)。

忘れられた共通認識「リカードの中立性」
  また、最近の「新しいケインズ経済学」の枠組み(ニューケインジアンと呼ばれる)では、中央銀行による金融政策の意義を強調する一方で、そもそも財政出動は分析の対象にもなっていない(なお課税政策は分析対象になっている)。ニューケインジアンの理論のなかでは「財政出動は無意味だ」というのが暗黙の共通認識になっているのである。
 そのおもな理由は、現在の経済理論の枠組みのなかでは、財政出動の無効を主張する「リカードの中立性」命題に対し有効に反駁できないからである。財政出動で政府がお金を使って国民の所得を増やしても、政府が使ったお金は、将来、増税によって国民から取り上げられる。国民はそのことを見越しているので、財政出動をしても、国民は将来の増税に備えて貯蓄を増やすため、消費や投資を減らしてしまう。結果として、財政政策が需要を拡大する効果は得られない。これが「リカードの中立性」である。
 この議論は非常に強力であるため、世界中のほとんどのマクロ経済学者は、(少なくともリーマンショックの前までは)財政出動を学術研究のテーマとして論じることはなかった。財政出動を景気回復のための政策とみなす考え方は、学術研究のレベルではケインズ経済学者も新古典派の経済学者ももっていなかったといえる( もちろん、財政支出には、公共サービスや年金や災害対策などを賄うという重要な意義があるが、それは景気回復とは無関係である)。
 4月2日のロンドンでのG2では、大陸欧州各国の政府が財政出動に慎重だったが、財政出動に積極的な日本やアメリカよりも、欧州の態度は近年の経済学界の動向に忠実な態度だったといえるかもしれない。また、オバマ政権の財政出動が将来世代に大きな負担を残すと強く批判している米共和党の主張も、リーマンショック以前の経済学の正統からみれば、ある程度の説得力をもつともいえる。

同シリーズコラム

同シリーズコラムをもっと見る

小林 慶一郎 その他コラム・メディア掲載/論文・レポート

小林 慶一郎 その他コラム・メディア掲載/論文・レポートをもっと見る

マクロ経済 その他コラム・メディア掲載/論文・レポート

コラム・論文一覧へもどる